インテル、3冠からちょうど10年。モウリーニョがあの一年を振り返る

インテル

ジョゼ・モウリーニョ監督が『ガゼッタ・デッロ・スポルト』のインタビューに応じた。

5月22日は、インテルが3冠を達成した日。あの時からちょうど10年が経ち、改めて当時を振り返っている。

モウリーニョ監督は2008年にインテルの指揮官に就任。ポルトガル語混じりのイタリア語で最初の会見に臨んだとき、「私はバカじゃない」と笑顔で話し、報道陣の心をつかんだ。

2009/10シーズンのインテルを“スペシャル・ワン”が振り返った。

「キャリアで最高の時だったと感じる。家にいるときも我がグループの感情を200%感じることができた。監督である以上に人だった。だから、(チャンピオンズリーグ決勝が行われた)マドリッドで私は誰よりも幸せだったんだ。モラッティ会長から倉庫番まで、みんながハッピーだったね。私はまず自分のことを優先に考えてきたが、インテルではそれがなかった。ファミリーなんだ。父になると分かる。誰が一番大事で、自分は2番目になるということがね」

「10年経っても、まだみんな一緒だ。この前、アレッシオと連絡を取った。当時のクラブのドライバーだよ。監督が10年前に去ったクラブのドライバーに連絡するなんてあると思う? 一切ない。それが私のインテルだ。私の愛した人々だよ」

――ほかのチームではなかったのか?

「ほかの関係は存在する。私が監督で、君が選手だ。あとはそっちが私を受け入れるかどうかだね。パズルのようなものだよ。インテルでは、そのパズルの完成を待ってくれる人たちがいた。私は自分を偽ったことはない。私は私だ。狂ったときもあるが、それも私なんだ」

「特にベルガモ(で行われた2009年1月のアタランタ戦)で負けたときは、選手たちにひどい態度を取った。パフォーマンスのひどさがスクデット級だと言って傷つけたよ。初めてのことで、そのあとに謝罪したんだ」

――ベルガモでの怒りは、キエフでのハーフタイム(2-1で逆転勝ちの2009年11月4日ディナモ・キエフ戦)とカターニア戦(1-3で逆転負けした2010年3月12日セリエA第28節)の後と比べてどうだったか?

「カターニア戦で私はベンチ入り禁止だった。バスで待っていて、もう少し冷静だったね。言いたいことは翌日に全て言ったよ。キエフはもっと激しかった。『敗退するかもしれないぞ』と話をして、試合後には5分間でも十分にやれるということを言ったね。いずれにしても、我々は一緒に最後まで戦った。だからこそ、シーズンで最も厳しかった日は、フィレンツェで引き分けた次の日だったんだ」

――改めて最初から。モラッティ氏と最初のコンタクトは?

「パリで彼の家だった。秘密のホテルじゃない。愛のあふれる情熱の全てを聞いた。言葉は好きじゃないが、壮大な夢があった。それがチャンピオンズリーグだ」

――チャンピオンズリーグのインテルは2009年3月(インテルがマンチェスター・ユナイテッドに決勝T1回戦で敗戦)のあとに生まれたことか。

「そうだ。スクデットを獲れるのに、チャンピオンズリーグには届かない。我々はインテルのクオリティについて話した。我々は戦術面でも変更が必要だった。選手たちはロッカールームで悲しみ、外では泣いていなかった。私にモラッティさん、ブランカ、オリアーリ。みんなでもっとディフェンスラインを高く、選手はそれぞれ2つのシステムをこなせるように、必要な選手は、といった話をしていた」

――2009年夏、インテルは当時のエースだったズラタン・イブラヒモビッチがバルセロナへ移籍した。

「チェルシーとのフレンドリーマッチのときのことだ。『イブラがバルセロナへ行く、行かない』が話題になっていた。彼は本当にプロ意識が高く、45分間プレーしたよ。ただ、ロッカーでは『出ていく。チャンピオンズリーグで優勝しなきゃいけないんだ』と言った。私のアシスタントの多くは『アイツなしじゃ優勝できない』と言ったし、チームメートも放出を望んでいなかった。私だって不安になったよ。ただ、『オマエが去って、我々が優勝する』と言ったんだ。ちょっと私がおかしかったが、ロッカーの雰囲気が変わった。そして、ブランカに『彼がバルセロナに行くなら、エトーを獲ろう』と話した。彼とミリートは戦術的に多様性をもたらしてくれた」

――ヴェスレイ・スナイデルがさらに多様性をもたらした?

「戦術的な多様性だね。驚異的な動き出しのある前線と結びつける中盤が必要だった。彼は完璧だったよ。最初は獲得が厳しかったが、ファーストチョイスだった。ブランカと話して『諦めないでモラッティさんをプッシュし続けよう』と言ったんだ。その日からモラッティさんに連日連絡して、『必要なんです』って繰り返したよ」

――4-0で勝ったミラノダービー(2000年8月29日)は完璧だったか。

「それに近い。見事なゴールに全体を通してのコントロール。精神的にもミランを破壊した。ただ、私のインテルのシンボル的な試合は、最後の一戦だ。プレーする前に勝っていたし、そもそもチャンピオンズリーグ決勝で戦うのは普通じゃないからね」

――モラッティ会長は「バルセロナ戦が私の人生で最もドラマティックだった」と話していたが、あなたにとっても同じか。

「違うね。スタンドにはドラマの中にいる時間があって、祈ることもできる。ピッチでは解決策が必要なんだ。当時私が言ったのは、自分のキャリアで最も素晴らしい敗戦だったということだね。ただ、3-2で勝った方がより壮大なことだっただろう」

――グアルディオラに話しかけにいった。

「ブスケッツが倒れ、チアゴ・モッタが退場になった。彼らのベンチを見ると、もう勝利を確信して喜んでいる姿もあった。グアルディオラはイブラを呼び、戦術の話をしたんだ。11対10で戦う戦術をね。私は『パーティーはやめてくれ。まだこの試合は終わってない』。そう言っただけだよ」

――決勝の前に記者の前で語ったのはサネッティ、エトー、フィーゴだった。

「サネッティはカピターノでありシンボルだったからだ。エトーには『チャンピオンズリーグの決勝がどういうものか、どう勝つのか教えてくれ』と伝えたよ。ルイスは楽観的だからだね」

――優勝後に息子を一緒に祝った。監督モウリーニョと父としてのジョゼがいた。それは今までなかったことだが。

「ズカ(モウリーニョの息子)はポルトでチャンピオンズリーグを獲ったとき4歳だった。だから何も覚えてなかったんだ。バルセロナ戦の前に言われたんだ。『ずっとこのチャンピオンズリーグを覚えていたい。パパの肩の上だったら最高だよ』とね」

――チームと一緒にミラノに戻ってこなかったのはなぜ?

「一緒に帰ったら、ティフォージも『ジョゼはオレたちと一緒だ』と歌っただろう。そうしたら、私は去らなかったと思う。決勝の前にレアル・マドリーとサインをしたということはない。レアル・マドリーの人間が決勝の前に我々のホテルに来たという話が出たが、大嘘だ。決勝前の裏話といえば、優勝を祝うシャツが入った段ボールを偶然見つけてしまい、見ないようにしたということくらいだ」

「私はレアル・マドリーに行きたかった。前の年から呼ばれていたんだ。モラッティさんの家に行ってそれを話し、『行かないでほしい』と言われた。レアル・マドリーに対しては、チェルシーにいるときもノーと答えたが、レアル・マドリーに3度もノーと言うことはできないよ」

「今は同じクラブに4、5年いることもできるかもしれない。ただ、私はイングランド、イタリア、スペインの全てで優勝する最初の監督になりたかった。だから自分に言ったんだ。『あと2日はここにいる。契約にサインをして、ミラノへ行く。もう後戻りはしない』とね」

――レアル・マドリー行きを決めたのはいつか。モラッティ会長に伝えたのは?

「バルセロナ戦のセカンドレグのあとだ。チャンピオンズリーグに勝てると分かったからだ。モラッティさんに言葉はいらなかった。ハグの温度で伝わった。そして、『君は去る権利がある』と言われたよ。私は、幸せよりも、自分がやりたいことをすることをとった。実際、マドリッドよりもミラノの方が幸せだったね」

――あなたのインテルの一員としての最後の写真は、マテラッツィとのハグだった。

「なぜなら、マルコは我々全員の悲しみの象徴だったからだ。チームの選手のあるべき姿だった。チームが彼を必要としたとき、チェルシー戦、ローマ戦、シエナ戦と、常に彼はそこにいたね。私はカトリックだ。だから、神様が彼を壁に向かわせたのだと思うよ。彼にハグをすることで、全ての選手にハグをしたんだ」

――インテルを出たあと、「いつかインテルに戻る」と言っていた。それをやめたのはなぜか。

「なぜその質問をされているかは分かっているよ。だが、私はバカじゃないんだ……」

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