パオロ・マルディーニとともに改革を目指したが…
元ミランのズボニミール・ボバンが、YouTubeチャンネル『Milan Hello』でのロングインタビューに応じ、クラブ幹部として在籍していた当時の内幕を赤裸々に語った。獲得目前で逃した逸材、クラブのアイデンティティの喪失、パオロ・マルディーニの解任──。すべては「脱ミラン化」というキーワードで結ばれていくのかもしれない。
今のインテルとミランの差はアイデンティティ?
ボバンはまず、現在のミランとインテルの間にある差について語った。
「結果を見れば明らかだ。だが、技術面の差というよりも、チーム作りの論理において大きな隔たりがある。インテルは“本物のチーム”だ。自分たちのやるべきことが分かっていて、明確なアイデンティティがある」
「一方、ミランにはそれがなかった。今季は100通りのアイデンティティがあったが、どれも正解ではなかった。選手の獲り方と使い方のミスマッチによって、明確な形を持てなかったんだ。それが残念でならない」
2019年、ミランの幹部に就任
2019年夏にCFOとしてクラブ復帰した当時、ボバンはすぐにチームの再編を決意した。
「私は自分が心から愛するクラブに戻れることがうれしかった。私は元々ミラニスタとして生まれたわけではないが、ミラニスタになった。このクラブは、私が知るほかのクラブとは違う何かを持っている。それは私がこのクラブでプレーしたから言っているのではなく、本当にそうだからだ」
「ミランに戻って、すぐに分かった。チームを全て入れ替えなければならないと。実際、半年で13人の選手を入れ替えた。明らかにチームは未完成だった。だから移籍市場後のインタビューで『子どもたちだけでは試合はできない』と言ったんだ。そのことでクラブはかなり怒っていたけれど、言わなければならなかった。彼らは一人では成長できないと分かっていたからね。だから1月にシモン・ケアーとズラタン・イブラヒモビッチを獲得した。彼らはスクデットまでの道のりにおいて、極めて重要な補強だった」
「その2カ月後、私はミラニスタがよく知っている理由でクラブを去った。あの2人、特にイブラヒモビッチがいなければ、スクデットに向かうミラン、アイデンティティを確立するミランは生まれていなかった。ピオリと私は多くの点で意見が合わなかったとしても、そのアイデンティティを植えつけることには成功したと思う」
ダニ・オルモ、ソボスライの獲得は「無視された」
在任中には、のちに大きく飛躍することになる若手タレントとの契約も目前だった。メルカートについて問われ、ボバンはこう答えている。
「パオロとは、ある種の取り決めがあった。彼はディフェンダーについて語ることが多かったし、それは2人で一緒にやっていた。我々がうまくやれたのは、互いに対する深い敬意があったからだと思う。時には、私が気に入ったDFがパオロにとってはあり得ないって感じに見えることもあった。でも戦術の全体像に関しては、私はあらゆるシステムで中盤をやってきたから、パオロより理解していた部分もあった」
「最終的に、選手の獲得はいつも一緒に決めていた。どちらかが納得していないまま選手を獲るようなことは一度もなかった」
「アレクシス・サレマーカーズの移籍は、ちょっと特殊な案件で、ほぼ私が全てやった。600万ユーロのオペレーションだったのが、最終的に800万になっていて、その理由をいつか誰かが説明する必要があるかもしれない」
「品のない言い方は避けたいが、ジョルジョ・フルラーニとは奇妙なことをいくつかやった。スソやピョンテクの売却益のうち、少しでもいいから我々に使わせてほしいと説得しなければいけなかった」
「ダニ・オルモを私自身がまとめに行った。2020年1月のことだ。全て話はまとまっていたし、少し条件を上げれば成立するはずだった。1800万+ボーナス200万。選手もそれほど要求していなかった。でも最終的に何の返答もなかった。つまり、拒否されたということだった」
「その後、ソボスライ・ドミニクにも行った。ザルツブルクとの契約解除金2000万ユーロで話はついていた。だが、それも拒否された。『何なんだこれは?』と思ったよ。その後、何度も話そうとしたけれど、2カ月も会ってもらえなかった。だから、私が取った行動は当然の結果だった」
「外からは突然の出来事に見えたかもしれないが、実は全くそうではなかった。でも、毎日公の場で騒ぐわけにもいかず、説明を求めようとしても、そういう場すら与えられなかった」
「売却した分はすべて再投資するという約束だった。スソとピョンテクで約5000万ユーロが入ったはずで、その金額でオルモとソボスライを獲得できるはずだった。オルモについては、ポジションがやや曖昧だったから最初は確信が持てなかったが、4-2-3-1なら理想的だった。チャルハノールはその位置では機能しなかった。彼はプレーメーカーであり8番タイプであって、10番ではない。1対1ができず、スピードもない。結局、ブラヒム・ディアスがその役割で機能した」
「ソボスライはインスブルックで交渉がまとまった。パオロは有名すぎて行けなかったので、リッキーと私が彼の父親と行った。完全に話はまとまっていたし、彼もすぐにでも来たがっていた。でも、それも拒否された。彼には『夏を目指そう』と伝えるしかなかった。とてもがっかりしていた。ソボスライは偉大な選手ではないが、非常に良い選手だ。オルモは将来的に偉大になれる可能性があった。ソボスライは私の中では8番タイプで、将来的には素晴らしいプレーメーカーになると思っていた」
「文化がないこと」が最大の問題
「何かがおかしいと気づいたのはいつか」という問いの答えも熱が入った。
「最初からだ。あの時パオロと自宅で話したとき、クラブがどう運営されているかのアイディアを聞いて、『これはミランのために、我々はオーナーと戦わなければならないかもしれない』と心の中で思った。そしてパオロが『まあ、そんなところだな』と」
「入る前から、あの文化、もしくは“文化がないこと”が我々の仕事にとって問題になるだろうとは分かっていた。でも、それを非常に大きな挑戦として受け入れた。結局、私にとってはすぐに終わってしまったが、それでもやる価値はあったし、仮に同じことになっても、もう一度同じことをやると思う」
「8月には、何の説明もなく私の決裁権が剥奪された。妙な話だ。どうなっていたかを知りたい人には、パオロ・マルディーニの『ラ・レプッブリカ』へのインタビューを読んでほしい。あれこそが真実だ」
「私は短い期間しかいなかったが、それでも我々がやったことを誇りに思っている。私の仕事というより、パオロとリッキー(・マッサーラ)が、困難な中で素晴らしい歩みを作り上げ、スクデットまで勝ち取ったことがすごいんだ」
「私は3年契約を結んでいて、その計画は、最初の1年は“掃除”、2年目は“安定”、3年目に“競争力”を持たせるというものだった。どんな活動でも3年は必要だ。ましてやミランのようなクラブなら最低でもそれくらいは必要だ」
「でも彼ら(オーナー側)は、たった3カ月で我々をほぼ無力化した。パオロが言ったように“待ち伏せ”のようなやり方でね。でもファンドというのはそういうものだ。10で買ったら、明日には15になっていないといけない。そこには論理なんてない。彼らはカルチョの人間ではないんだ。悪意があるわけではない。ただ、彼らにはカルチョを理解できていないというだけだ」
脱ミランとマルディーニの解任
2020年2月のインタビューで、ボバンが「野心」「ミラニズモ」「イタリア性」という3つのキーワードを挙げていたことにも触れた。
「私は『脱ミラン化』について話した。そうなることへの恐れがあったからだ。クラブへの帰属意識という力を意図的に失わせようとしているのは明らかだった。なぜなら、それはあまりに強い感情で、別の形で支配したい人間にとっては邪魔になるからだ」
「『Always Milan』だったか? あれは一体何なんだ? 全世界がミランのことを知っているのに、あんなスローガンをバスにまで書いて……。やめてほしい。ああいうのは不快だし、全てを均一化して、人間をロボットのようにしてしまう。ティフォージは“客”に、選手は“アセット”に変えられていく。それが彼らのやり方だ」
「獲得の失敗はそれほどなかった」
ジェフリー・モンカダの手腕にも言及した。その上で、決断を下すのはスカウトの仕事ではないとも考えている。
「彼は優秀なスカウトだし、優れたスカウト部門のトップだった。でも、スカウトの世界ではみんなが同じ選手を知っている。誰がどこにたどり着くかという違いはあるけれど、ラファエル・レオンについては誰でも知っていた」
「大事なのは、レオンがミランでプレーするためにどういう姿勢に変われるかだった。モンカダは選手を紹介する役目であって、選手を決めるのは我々だった。彼は、そこに踏み込んでくることはなかったし、非常に上品だった。だって彼がサン・シーロでプレーするとはどういうことかを分かるわけがない。結局、誰ができて誰ができないか、我々は見極めてきたと思う」
「結局、獲得の失敗はそれほどなかった。ただ、それはパオロの仕事の価値を貶めたい人たちがつくった物語だと思っている。私は7カ月しかいなかったが、その間に行った改革が、スクデットを獲るチームの基礎になったのだからね」
「トナーリは本物のミラニスタ」
最後に、マルディーニの解任とサンドロ・トナーリの放出についても強く批判した。
「恥ずべき出来事だ。やり方も恥ずかしい。品がないし、到底受け入れられるものではない。もっとひどいことも言えるし、いくらで言えるが、自制するよ。何よりも、彼らにとっても説明がつかないことだったはず」
「パオロは、彼らが好きにやるための“最後の障害”だった。そして、トナーリの件が大きく影響した。パオロなら絶対に彼を出さなかった。7000万ユーロの差が出たという話もあるが、ミランにその金は入るべきではなかった。なぜなら、トナーリはミランから出るべきではなかったからだ」
「彼は本物のミラニスタだった。我々が接触したとき、ユヴェントスにもインテルにも行かないと言ってきたんだ。パオロとリッキーが、あの価格で彼を連れてきた。最初の年は、彼はミランへの愛とスタジアムへの敬意に縛られていた。多くの人が疑問を持ったが、私の父は『あの子はプレーするのが怖いんじゃないか?』と言っていた。確かにそうだった」
「でも、彼のポテンシャルを考えれば、1年の適応期間と自由な空気が必要だった。最初は自由じゃなかった。彼はミラニスタすぎたんだ。あんな象徴を、しかもスクデットの後に、あれだけの貢献をした選手を手放すなんて、到底理解できない」