インテルのDFアレッサンドロ・バストーニが『ガゼッタ・デッロ・スポルト』のインタビューを受けた。27日の紙面で紹介されている。
――UEFAの有望な若手50人にイタリア人で唯一選出された
「名誉なことだね。犠牲を払って取り込むことでだけ応えることができる。でも、今はさらに求められるものが高くなっているよ。誰に? ティフォージもそうだし、コンテもだ…」
――より恐れていたことは?
「コンテからプレシーズンの合宿前に連絡がきた。15分間電話をして、『何を心配しているんだ。君がインテルにいるということは、ちゃんと理由がある。すぐに理解するだろう。私が望んだから、君はここにいるんだ』と言われた。大きな飛躍をするのが恐かったんだ。それから、名前は関係ないと理解した。チームメートはみんな僕と同じで、長所も短所も持っているものだったよ」
――ジェノヴァでデビュー
「いろいろな感情を持って一週間練習に取り組んだ。コンテには何も言われていなかったよ。監督は僕を15年前からインテルにいる選手のように扱った。それが彼のすごさでもある」
――ベルガモの下部組織で育った。新型コロナウイルスが最も猛威をふるっている地域の一つ
「たくさんの友達がそこにいる。直接的に誰もかかわっていないことが幸運だね」
――今シーズン中の再開を望んでいる?
「できるだけ早くピッチに戻りたい、というのが、僕の希望であり、僕たちの希望だ。でも、まずはみんなの健康だ」
――隔離中の過ごし方は?
「シュクリニアルと電話をしたり、エスポジトとプレステで遊んだり。一緒にFIFAをやったよ。彼と2トップを組んだんだ。一番強いのは? もちろん僕だよ。一番ひどいのは(アタランタ時代のチームメートであるMFフィリッポ・)メレゴーニだけどね」
――ポジティブな側面を考えよう。あなたにEURO出場のチャンスが出てくるかもしれない
「そのことを考えない、不可能だって言うのは愚かだね。イタリア代表のユニフォームはみんなのもので、誰にとっても夢だ。それは僕にとってもだね」
――それが次の目標?
「違うよ。僕の目標はインテルにある。ここで何かを勝ちとりたい。プレーに戻ることになったら、僕たちはいくつかのものを争う立場なんだ」
――君がここにいるのは、誰のおかげ?
「家族、僕をアタランタに導いたミノ・ファヴィーニ、アタランタのジョヴァニッシミ・ナツィオナーリの監督であるジャンルカ・ポリスティーナ。それにアニェーゼだね」
――詳しく教えてくれる?
「一番仲の良い女友達だった。2015年に事故で亡くなったよ。そのとき僕はそこにいなくて、U-17でブルガリアへ行っていた。家族も友達もいなくて気持ちの整理がつかず、世界が崩壊したようだった。(故郷の)ピアデーナは人口3000人の小さな街で、周囲との絆が強かった。そこから立ち上がった。その経験が僕を強くした」
――父もサッカー選手だった。どのような関係?
「口うるさいタイプだったよ。何度も何度も直されて、僕は怒りっぽくなった…。父は僕に自分のキャリアを超えてほしいと思っていた。Aでデビューした今も口うるさいのは変わらないね。でも、今は父に反論もできるよ」
――サッカー選手になっていなかったら?
「学校で優秀だったんだ。マントヴァの科学系の高校を出て、スポーツ科学を学び、ゆくゆくはアスレチックトレーナーになったと思う」
――好きな選手
「チアゴ・シウバとサムエル。彼ら2人をミックスしたような選手になれたらいいね」
――チアゴ・シウバ&サムエルorステフィン・カリー。どっちとディナーしたい?
「絶対にカリー。NBAが大好きなんだ。彼のために夜中に起きるくらいだ。彼の態度が好きだよ」
――最近、君の価格が3100万ユーロだという話が出たけど…
「心配していないよ。僕のインテル行きが決まったときのこと知ってる? 代理人のティンティにパルマのアウトグリル(ファミレスチェーン的なところ)に呼び出され、車を降りるときに、『インテルに行…』と言い終わる前に『うん、うん。行こう』って応えたんだ。3100万ユーロなんて聞いたのはそのあとだ」
――カルチョの嫌いなところは?
「選手は無知で上っ面だけで行儀が悪いというイメージが一般的になっていることだ。それはほかの人よりもニュースになる同業者のせいだね…」
――10年後のあなたは?
「インテルにいる。いくつかのトロフィーをすでに手にしてね。そしてカピターノになれていたらと思うよ」