かつてインテルで活躍した元コロンビア代表のイバン・コルドバが、『ガゼッタ・デッロ・スポルト』のインスタグラムで様々な質問に答えた。
――インテルの今シーズンの評価
「すごく良い。強い決意を持って臨んだからね。トップに近づくという目標は簡単じゃなかった。それに成功しているね。達成すべき目標に誰もが納得している。時間はかかるが、メンタリティは『インテルにやってくる人間は、勝たなければいけないことを知っている』ということだ。最後の数試合をのぞいて、中断前のインテルはそれを示していたね」
――コンテについて
「彼がやってくる前、全てのインテルのティフォージと同じ気持ちだった。我々にとって、受け入れるのは難しかったよ。ネラッズーラのバンディエラがユーヴェへ行くようなものだからね。仕事ぶり、結果、チームの管理、このクラブを守ること、最初はなかった自信を植えつけた。すごい監督だ。我々はそういった人物を求めていた。勝者のメンタリティを持った人物をね」
――2001~2003年に指揮したエクトル・クーペルについて
「勝者のインテルのベースを築いた人物だ。全て彼から生まれた。全力を出すことに焦点をあてたチームを組織したね。約3年間で起きたことは最高の経験だった。ミステルとは良い思い出があるから、とても尊敬している」
――思い出のゴールは?
「ゴールといえば、コパ・アメリカ決勝で決めたものだね。インテルでは、コッパ・イタリアのレッチェ戦で決めたのを覚えている。DFがゴールを決めるのは特別だね」
――今後の夢
「何か特別なことをしたい。いつかは分からないけど、自分の代表チームでも仕事をしたいと思っている。ただ、最大限のことがしたいと思っているんだ。コロンビアサッカー連盟の会長になれたらいいね。きっといろいろなことができる。議論を呼びたいわけじゃないけど、同じ人たちで続けてきた期間があまりに長い。カルチョは絶えず変化しているもので、考え方も更新していなかければいけないんだ」
――サミュエル・エトーについては?
「サミュエルのことは、皆さんが見てるでしょ(笑)。私から言えるのは、人間性の部分についてだね。彼はいつも若手にアドバイスをしようとしていた。ある種の監督だ。ピッチ上で自信を与えようとしていくれるね」
――なぜミランに行かなかったの?
「いやいや。あり得なかったんだ(笑)」
――ジェイソン・ムリージョについて
「しっかり機能しなかったのはすごく残念だ。長くインテルでやれるかもしれないというのを示していたからね。クラブの最悪の時期にかぶったことも影響したと思う」
――最も影響を与えた監督は?
「自分のトレーナーとの関係が強いんだ。彼と両親がいなければ、なんとしてもセンターバックをやるという私の頑固な頭はできなかった。背が低いからムリだって言われてきたよ」
「インテルではたくさんの監督の下でやった。だから、優劣をつけるようなことはしたくないんだ。それぞれがチームのためにベストを尽くしたということは言いたい。マンチーニの時代に成功が始まり、モウリーニョの時代はファンタスティックだった。この2人の監督は、その6年間で私に多くのものを与えてくれたね」
――愛着があるユニフォームは?
「コロンビア代表では、(アンドレス・)エスコバルが亡くなったあとに2番をもらった。インテルでも2番だったね。最初は21番だった。その後(当時2番だったクリスティアン・)パヌッチが出ていく前に『用具係のところへ行って来シーズンから2番をつけたいって言ってこい』と言われたんだ」
「そうそう、こんな話があるんだ。ミランの用具係がある日私のところにきて、エスコバルがインターコンチネンタルカップ決勝で着たユニフォームをくれたんだ。それにふさわしいと言われてね。それをもらって、エスコバルの両親に連絡をした。あなた方が持つべきだとね。そうしたら『いや、イバン。君が持ってくれているなら私たちは安心だよ』と言われたんだ」
元コロンビア代表のエスコバルは、1989年のインターコンチネンタルカップでアトレティコ・ナシオナル(コロンビア)の一員としてミランと対戦した経験がある。1994年、ワールドカップのアメリカ戦でオウンゴール。1次ラウンドで敗退が決まると、母国に戻ったあと射殺され、27歳の若さで帰らぬ人となった(エスコバルの悲劇)。エスコバルはワールドカップ後にミランに移籍するはずだった。