元インテルDFがロングインタビュー
かつてインテルで活躍した元コロンビア代表のイバン・コルドバが、『ラジオセリエA TV』のロングインタビューに応じ、様々なテーマについて語った。
幼少期
「父との小さな思い出がある。父は働いていた会社のアマチュアチームでプレーしていたんだ。そこがきっかけだったね」
「当時、コロンビアは歴史の中でも非常に困難な時期だった。麻薬密売、武装グループ同士の戦争があった。特にメデジンでは日常的に衝突があった。子どもだった自分は、そんなことが自分に降りかかるとは思わず、ただサッカーをしていた。スポーツは本当に大きな存在で、悪の道に行かないための助けになったよ」
アンドレス・エスコバルへの憧れ
「とても不運な物語だが、プロフェッショナルとしても人間としても、コロンビアの人々の心に深く刻まれている。ナシオナルや代表で彼のプレーを見るのは素晴らしいことだった。模範となる選手を探していた子どもにとって、彼はまさにその一人だった」
「もちろんバルデラマもいたが、エスコバルはすべての面で完璧な選手だった。彼のプレースタイル、ファンへの接し方をよく見ていた。彼の背番号2は封印されていて、自分から欲しいと言うことは考えられなかった。しかし代表初招集のとき、彼の最後の監督だった人が『君がこの番号を受け継ぐべきだ』と言ってきた。彼は僕の中にエスコバルの精神を感じてくれたんだという。3年間、誰もその番号をつけていなかった。その瞬間は信じられなかった。自分から頼むこともできないほど神聖な番号だったから。でも監督に託されたとき、より大きな責任を感じ、どこに行っても誇りを持ってプレーしようと決意した」
なぜインテルだったのか?
「イタリアのカルチョサッカーは、どんな選手にとってもまるで小説の世界に入るようなものだった。レアル・マドリーもすごかったが、イタリアのカルチョには“ロマン”があった。自分はロマンチストだから、そこに行きたかった。インテルが自分を求めてくれたとき、あのスター軍団を見て、もう目がくらんだよ」
「ミラノに到着して、特に印象に残っているのはモラッティさんとの最初の対面だ。彼の最初の言葉は今でも心に刻まれている。『君はプレー中にとても強いキャラクターを持っている。ミスをすることもあるだろうが、それはインテルのティフォージにとっては問題じゃない。彼らが許さないのは、全力を尽くさないことだ。それさえ守れば、ここにずっといられる』だったね」
マッシモ・モラッティ会長
「モラッティさんはただの会長ではなかった。父親のような存在だった。インテルというクラブは、家族そのものだった。彼の姿勢を見て、我々も同じように行動するようになったんだ」
「彼が最も大切にしていたのはティフォージだった。試合を観るために犠牲を払う人々、遠征してチームを支える人々――、彼らのために、クラブと選手は常に近い存在であるべきだと考えていた。だからこそ、ティフォージとの距離ができたときには、何かが間違っているのだと思う」
ロナウドとロベルト・バッジョ
「ロナウドは本当にすごかった。言葉では表現しきれないほどだ。特に最初のケガの後、彼が試合で100%の力を発揮できないことは分かっていた。だから練習では誰も彼に激しく当たりにいかなかった。彼が次に何をするのか、ただ見ていたかったんだ。彼の時間は長くは続かなかったが、その短い期間でさえも素晴らしかった。ボールを奪ったら、すぐに彼に渡す。それが我々の戦い方だったね」
「バッジョも同じだった。彼がいれば、ボールを預ければなんとかしてくれる。バッジョは本当に素晴らしい人間だった。妻に『インテルには誰がいるの?』と聞かれて、バッジョの名前を挙げると『あぁ、“イル・コディーノ”ね!』と言っていたよ。コロンビアではバッジョは手の届かない存在のように感じていた。でも、実際に彼と一緒にいると、なぜ彼があそこまでの選手になれたのかがよく分かった」
アンドリー・シェフチェンコにはCL準決勝で得点を許した
「素晴らしい選手だった。そのおかげで自分もより成長できた。シェフチェンコや、常にオフサイドぎりぎりを狙っていたインザーギのような相手と戦わなければ、ここまで競争力のある選手にはなれなかったと思う。こういう選手たちと対峙するときは、普通以上のものが求められるものだね」
「あの場面では彼のほうが上だった。こぼれ球がたまたま彼の前に転がり、決められた。それが運命だったのかもしれない。でも、それは『その時』ではなかったということ。7年後にその瞬間が来たんだ」
「毎シーズン、目標は優勝だった。でも、クーペルの時代から、我々は少しずつ勝者のメンタリティを築き始めていた。5月5日(2002年)も大きな痛みだった。でも、今振り返ると、それも必要なプロセスだったと思える」
「あの苦しみがあったからこそ、2010年に訪れた歓喜は何にも代えがたいものになった。2002年、2003年と苦しんで、『お前たちは勝てない』とどこへ行っても歌われた。あれが一番悔しかったよ」
カピターノとしてコッパ・イタリア優勝
「初めてのコッパ・イタリア優勝は、”お前たちは勝てない”という重圧を一気に振り払うような感覚だった。あのユニフォームを着て、トロフィーを掲げることは本当に特別な瞬間だった」
そのとき、自分を見ているコロンビアの人々のことを考えた。彼らの前でカピターノとして優勝することができたのは、誇らしいことだった。その試合ではハビエルに代わってキャプテンマークを巻くことになったけど、彼がいなかったのは残念だった。でも、その後彼はさらに14個のトロフィーを掲げることになったけどね」
チャンピオンズリーグ制覇
「チャンピオンズリーグを制覇したいという気持ちは信じられないほど強かった。インテルに来たとき、ティフォージはスクデットではなくチャンピオンズリーグの話ばかりしていた。45年間も待ち続けた大会だったからね。そして、いざ優勝の瞬間を迎えたとき、僕はハビエル(・サネッティ)の胸に頭を押し付けた。彼の中に入り込んで、喜びを分かち合いたかったんだ。我々のためだけではない。暗黒時代を支えてくれたティフォージ、モラッティファミリー、そしてずっと応援してくれたすべての人々のためだった。それはまさに解放の瞬間だったよ」
ジョゼ・モウリーニョ監督
「3人目の息子の名前はフアン・ホセ(Juan Jose)だけど、モウリーニョとは関係ないよ。単純にその名前が気に入っていただけなんだ。でも、多くの人が彼の影響だと思っていたみたいだね」
「彼が来たときの印象は、『すべてを知り尽くしている監督』というものだった。そして、実際に話をすると、なぜ彼がモウリーニョなのかが分かる。彼はどんな小さなことも見逃さない」
「彼から学んだことは多いが、特に印象的だったのは、どんな手を使ってでも選手の最大限の力を引き出す能力だ。時には厳しく、時には優しく、でも、必ず選手を限界まで追い込んでくる。彼は最初の年、誰が本当に自分についてこられるのかを見極めようとしていた。試合に出さなかったり、わざと刺激したりして、選手がどう反応するかを確かめるんだ。そして、1カ月試合に出さなかったかと思えば、いきなりその時点で最も重要な試合に起用する。彼はチームがどんな状況でも彼のために戦うように仕向けていた」
「いろいろな出来事があったが、特にベルガモでの出来事は強烈だった。彼は『絶対に選手の悪口は言わない』と言っていたが、そのときは私のことを公の場で批判し、実際の年齢よりも年を取っているとまで言ったんだ」
「ただ、彼はものすごく賢い。試合の前半を3-0で負けていたが、後半は1-0で勝ったと言ってきたんだ。翌日、彼はチーム全員を集めてミーティングを開き、お互いに本音をぶつけ合った。そこから、お互いを理解し始めた。彼はそういう側面も持っている監督だったんだ。その出来事が、のちの成功へ向けた再構築の始まりになったね」
インテル在籍中、他クラブからの関心はあったか
「まず、全く後悔はない。インテルは偉大なクラブだった。コロンビアの代表として、重要なことを成し遂げたいと自分に誓っていた。ただの一選手として終わりたくなかった。コッパ・イタリアでさえ、僕にとっては最高のタイトルだったんだ」
「レアル・マドリーが2度オファーを出してきた。彼らは『金の問題ではない』と言っていた。代理人も『レアルに行くべきだ』と言っていたね。でも、僕はモラッティさんと話して、残ると決めていた。たとえ倍のオファーがあっても、インテルに留まると約束していた」
「カンビアッソがインテルに来たとき、彼をレアルに連れて行くべきだと話していた同じ代理人が、また僕にも声をかけてきた。でも、モラッティさんとの約束を守ったよ」
「優勝できなかった時期には、サネッティと『何が足りないのか』とよく話していた。彼はいつも『心配するな、努力は報われる。成功は必ず訪れる』と言っていた。そして、その通りになったんだ」
3冠のシーズン、シーズン中に「これは特別な年だ」と感じたことはあったか
「そういうことは考えない。考えると燃え尽きてしまうからね。常に一戦一戦に集中していた。我々はコッパ・イタリアを勝ち取り、スクデットを獲った。そしてチャンピオンズリーグ決勝へ……。でもその先に“3冠”があるとは考えていなかった。ただ目の前の試合に勝つことだけを考えていたんだ」
2035年の自分
「絶対に家族のそばにいるね。昨日、一番下の息子と過ごしていて、このインタビューのことを考えていた。将来、どこにいるかは分からない。子どもたちもそれぞれの道を歩むだろう。でも、できる限り家族と一緒にいたい。
「イタリアにいるのか、それとも別の場所なのかは分からない。4人の子どもがいるから、どこに落ち着くかはまだ未知数だ。でも、コロンビアのサッカーの発展に貢献できる存在になりたいとは思っている。我々は代表チームとしては強いが、国内リーグの基盤がまだ足りない。少しずつ改善されているが、もし自分に何かできることがあるなら、全力を尽くすつもりだ。サッカーから完全に離れることはない。それは家族と並ぶ、自分の人生最大の愛だからね」