かつてインテルでプレーした元ブラジル代表のアドリアーノが、『The Players’ Tribune』の中で、さまざまエピソードに触れている。
パパラッチと豪快おばあちゃん
「インテルにいたときは、記者にずっと追いかけられた。僕の家の下にずっといるんだ。どこへも行けず、閉じ込められた気分だったよ」
「当時はおばあちゃんと住んでいた。水が沸騰していたから、おばあちゃんが何か料理しているんだろうなーと思って聞いたんだ。『おばあちゃん、何しているの? 何を作っているの?』ってね。そうしたら、『何も作っていない』って言うんだ。でも、手元にはパスタをゆでる用のおっきな鍋があってね。『外にいるお友達にちょっとしたプレゼントを用意しているのよ』って言うんだ。『え? おばあちゃん、ちょっと待ってよ! それはマズイって!!』って慌てて止めたんだ。でも、『記者の皆さんにちょっと素敵なお風呂を用意したいだけよ! きっと気に入ってくれるから!』ってなってね。超マジだったから落ち着かせないといけなかったよ。僕のおばあちゃんはそういう人なんだ」
インペラトーレと呼ばれて
2001年にフラメンゴからインテルにやってきたアドリアーノは、皇帝を意味する“インペラトーレ”の愛称がついた。
「インテルに加入して、周りは僕をインペラトーレと呼んだ。インテルに行ったときは、まだ何も知らなかったよ。チームメートを見て、『セードルフ、ロナウド、サネッティ、トルド。その他』って感じだった」
「ロッカールームでセードルフが裸で歩いているのを見て驚いたことも覚えている。あの人はバキバキで体脂肪率7%だったんだ。尊敬しちゃったよ!」
「ベルナベウでのレアル・マドリー戦はよく覚えている。ベンチスタートで、エリア手前からのFKをもらった。ボールの近くに僕がいたから、行かない理由がなかったんだ。でも、後ろから誰かが何か言っていたよ。当時はまだイタリア語が分からなかったけど、『やめとけやめとけ、オレが蹴る』なんて言っていたんだろうね。マテラッツィのやろう!(笑) そんなこんなしていると、セードルフがきて『少年に蹴らせてやろうぜ』って一言いったんだ。セードルフと議論する人はいなかった。それでマテラッツィが引っ込んだんだ」
モラッティの寵愛
当時インテル会長だったマッシモ・モラッティ氏は、クラブを愛すると同時に、選手たちを我が子のようにかわいがった。アドリアーノにとって、それは大きな意味があった。
「インテルは今でも僕の心のチームだ。フラメンゴ、サンパウロ、コリンチャンス、プレーしたクラブにはすごく愛情がある。ただ、インテルはスペシャルだね。イタリアのマスコミ? それは別だけど…。インテルはクラブとして最高だ。サン・シーロで僕のチャントが起こることを思うと、今でも鳥肌が立つ。自分がブラジルのファベーラからきた男なのか、イタリアの皇帝なのか、自分でも混乱したね。まだほとんど何もしていないのに、王様のように扱われたんだ。素晴らしかったよ」
「リオから家族全員が訪ねてきたことも覚えている。家族っていうと、あんま分からないだろうね。僕が言っているのは、ブラジル式の家族だ。両親じゃないよ。44人全員だ。いとこ、おじさん、おばさん、友人…。身近な人がみんな飛行機でやってきんだ! その噂は会長にも伝わってね。モラッティさんは『彼にとって特別なときだ。ご家族のために大型バスを用意しよう』って言ってくれたんだ。44人のブラジル人がイタリアでバス旅行なんて想像できる? もうスペクタクルだね。お祭り騒ぎだよ」
「だからこそ、僕はモラッティさんについてもインテルについても、悪く言うなんてことは絶対にない。全てのクラブがこうであるべきだと思うほどだ。会長は僕のことを人として心配してくれた。『アドリアーノはどこへ行ってしまったんだ。なぜカルチョをやめたんだ』、イタリアに行くたびにこういったことを聞かれる。僕に起きたことをしっかりと分かる人はいないし、最も誤解された選手の一人だと思う。でも、実際にはすごく簡単なことで、たった9日間で人生の最高潮から地獄の底に突き落とされた。マジメな話さ」
父アウミルのためのカルチョ
アドリアーノの父アウミルさんは、2004年8月4日に亡くなった。ここからアドリアーノの人生は大きく変わる。
「インテルと一緒にヨーロッパに戻った。家から電話があって、父が死んだと言われた。心臓発作だってね。それについて話したくはないけど、その日から僕のカルチョに対する愛情はそれ以前とは同じじゃなくなってしまった。僕はカルチョを愛していた。それは、父が愛していたからだ。運命だったんだ。カルチョをするときは、家族のためにだった。ゴールを決めるのも家族のためだった。だから、父が亡くなって、カルチョは僕にとって違うものになった」
「僕はイタリアで過ごしていて、家族とは遠く離れていた。でも、うつになった。酒浸りになった。練習する気も起きなかった。インテルは何も関係ない。僕が家に帰りたかっただけなんだ」
「正直なところ、数年にわたってセリエAでたくさんゴールを決めていたし、ティフォージにも愛されていた。でも、喜びを感じなくなってしまった。それが父だった。分かるかな? リセットボタンを押しても、自分自身に戻ることはできなくなってしまったんだ」
「全てのケガは肉体的なものとは限らない。2011年にアキレス腱をやった? フィジカル面で終わったと思ったよ。手術をしてリハビリをしたら、また前に進むことはできる。でも、同じには戻れない。爆発力を失ったし、バランスを失った。今だって足を引きずっている。足首には穴が空いている。父が亡くなったときも同じだ。足首にもあるように、魂にも穴ができた」
インテルとの別れ
父の死後、著しくパフォーマンスを落としたアドリアーノ。2008年はジョゼ・モウリーニョ監督を迎えたインテルである程度の存在感を放つも、やはり元の状態には戻れず。2009年4月、ブラジル代表招集でチームを離れると、そのままイタリアには戻ってこなかった。
「代表に呼ばれた。出発前にモウリーニョから『もう戻ってこない。そうだな?』って言われたんだ。『あなたは知ってるだろ!』ってこたえたよ。片道切符だね」
「マスコミは僕たちが人間であることを忘れることがある。インペラトーレのプレッシャーは大きすぎた。僕は何もないところからきた。ただの少年で、ただカルチョをしたいだけだ。それが終わったら、友達と呑みに行きたい。いまどきの選手からは聞かれないことだろうね。マジメだし、お金がかかるからだ。でも、正直に言いたい。僕は結局ファベーラの出身だ。メディアは僕が“行方不明”っていって、ファベーラに戻ったと書いた。ドラッグをやっているし、ほかにもいろいろ書かれたよ。写真を撮られて、犯罪者に囲まれていると言われ、悲劇の物語だと言われた。笑っちゃうよね。だって、自分には全く身に覚えがないんだからさ」
ハートの価値
「肉体的にも精神的にも壊れていた。助けが必要だと思って、サンパウロへ行った。サンパウロFCには世界最高峰のドクターが何人かいたんだ。僕がうつ病と闘うのを手伝ってくれる心理学者と会って、そこからリスタートできた」
「だから、改めてモラッティさんには感謝しなければいけない。いつだってあらゆることに同意してくれた。僕の状況を分かってくれているから、僕にスペースをくれた。イタリアとブラジルを行ったり来たりした時期があるけど、結局あの人にウソはつけない。ある日モラッティさんから電話をもらい、『調子はどうだい』と聞かれた。そして、状況を理解するんだ。完全にね。そうしたら、問題なく僕を行かせてくれた。だから永遠に感謝するよ」
「アドリアーノは大金を諦めたと言われる。確かにそうだね。でも、魂に値段なんてつけられない。僕は当時、父の死に打ちのめされた。それでも、再び自分を感じたいと思った。ドラッグはやったことがない。尿検査をしてくれてもいいよ。絶対にドラッグの反応はない。神に誓うよ。ただ、アルコールの痕跡は出るだろうね」
「僕はフラメンゴに戻ったとき、もうインペラトーレは嫌だと思った。アドリアーノで在りたいと思った。まだ楽しくやりたいと思ったんだ。楽しめたと言えると思うよ」